昭和55年03月11日 朝の御理解
御理解 第90節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
お徳を受けるまでが信心辛抱という事になりますですね。辛抱して行く内には徳が受けられると。その辛抱して行く辛抱具合とでも申しましょうか。その辛抱の内容を合楽では有り難いものだよ楽しいものだよと。愉快にまでなって来るものだよと説く訳ですね。成程匹夫の凡人から開くのだから、ものが難しゅうて暇がいると。けれどもその暇がいる間を私は信心修行だと思う。それをもう大変まぁもうそれこそ石にかじりついてでもと、言った様な辛抱ではなくて。いわゆる有り難い勿体無いの辛抱が出けるように。
天地の道理を説き、又は天地の親神様の心の奥を分からせて貰いながら、有り難しで過ごして行けれる。そこに神様のご信用もつくお徳も受けられる。お徳を受けて行くという事なんですけれども。だからその辛抱して行く内に徳が受けられるという辛抱が、ただ訳は分からんなりに、ただ一生懸命まっ我武者羅に辛抱して行くというのとは、訳が違うわけです。よしそれは辛抱して苦しまぎれにじだんだ踏んで願う頼む。おかげを受けたに致しましても力にはならん徳にはならんのです。
そこんところをまぁ昨日の御月次祭にゃ、まぁ頂いたように思いますね。宮崎の黒木さんが頂かれたお夢の、昨日まぁ朝のお届けの中に。養素拝山という事を御夢の中に頂いておる。ちょうど御信心を始められて一年になる。そしてこれは真の信心を頂かなければ、ただ拝む参るだけではいけない。その真の信心を頂きたい頂きたいと思いながら一年経った。何も真の信心らしい信心も出けなかった。ご普請があったからもうとにかく神様を家の中心に、もうそれこそ麗々しゅうお祭りはしたけれども。
そして近所の人達がお参りされる位におかげは頂いたけれども、自分自身の上に真の信心という事は分からない。丁度これだから2、3日前から宮崎の方へまぁつうっと回っておりましたからあちらで、あちらでの十三日会が黒木さんのお宅であった。光昭先生のお話を頂いて、何か今まで分からなかったものが分かったような気がした。そして休ませて頂いたらそのお夢であった。養素拝山と。要素というのは必要の要という字ですね。あっ違うようは養うという字。素は養いの素という味の素の素です。
拝山とは山を拝むと書いてある。それがお夢の中に現れた。けれどもその養素拝山というのが、養素というのが右を向いており、拝山というのが左を向いておるという、まぁ面白い御夢であった。どういう事か分からない。言うならば私共がおかげを受けるという事は、心が豊かな世界に住むから、豊かなものにも金にも不自由しなくなる。それがいよいよ豊かに大きくなればおかげも大きくなる。これはもう理の当然である。だから心を養う事の手立てを先ず感じなければならん。
毎日拝みよります参りよりますでは心は大きゅうならん。心が豊かに大きくなる事の為に精進しなければならない。その心が豊かに大きくなる事のためには、言うならば拝山である。山の事を修行という。その山を拝むとある修行を拝むという。はぁ神様がこのような難儀な問題をもって、いよいよ私の心を豊かにして下さろう。もう苦い物は嫌、臭い物は嫌と思うておったけれども、信心が分からせて頂くようになると、なるほど苦い物は苦いのであるけれども、おかげで胃が健全になったセンフリのようなもんだ。
こんな臭い物をと思うておったにんにくが、いよいよ体が健全になる事のいわば素を作ってくれたと言う様にね。そういう私共が頂き方。いよいよ養素である。いよいよおかげを頂かせて頂く事のために、心が豊かに大きくなる事のための、神様の言うならば下さる修行である。だからそれを合掌して受けて行く。もうこれに限るんだ。豊かな心。言うなら大きな心。その中に昨日は天地書附が気軸になってるんだと、金光教の信心はね。だからこれ一本に絞りゃいいんだと。教祖様の御教えの総てがその和賀心。
和らぎ賀ぶ心を頂く事の為にあるんだという御理解だったですよね。ですから今日のここの御教えを匹夫の凡人からおかげを、お徳を受けよう力を受けようと言うのだから、なかなかそう簡単には頂けない。それはちょうど下から上へ水を流すように難しいと、仰っておられますけれども。その難しい事が段々楽しゅうなって来る。苦いけれども有り難い、臭いけれども有り難いという事になって来る。そういういわば辛抱であってこそ初めて身に徳を受ける修行という事になるのじゃないでしょうか。
もう30年、50年。いやもう親子三代も四代も続いておるという人もありますけれども。ただ信心が続いておるというだけでは徳にはならん。辛抱して行く内に徳が受けられるという辛抱とは、昨夜の御理解に頂きましたような。その言うならば養素拝山である。その養素と拝山が背中合わせになっておったんではおかげにならん。それが反対に拝み合う世界。養素拝山が拝み合うような在り方にならせて頂いたら、言うならば難儀様有り難うございますという事になる訳なんだ。
痛うございますとけれども有り難うございますが言える。苦しいです。それは昨日の御理解にもあったようにかき混ぜられる。自分の心がかきむしられるごとある思いをする事もあるけれども、じっと黙って治めて辛抱させて頂いたその後には、それこそあのうお抹茶を立てる。あのお薄の味のように茶筅でシャーっとこう、かき回されるような時にほど、その後の味わいというものは、それこそお薄の味にも似たような味わいが感じられるように、合楽理念では説いてありますしまた。
そういう頂き方が本当だという事実にまた私の体験に、また神様から頂くお知らせにそれを踏まえての、ここの御理解なんですね。私は昨日ずっとお話をさせて頂きながら、今のようなお話をもう、ちょうど時間だからこの辺で何か締めくくらせて頂こうと思ったけど、なかなか言葉が出なかった。お説教台の前に立ちながら、立ったまま御祈念させてもらった。したら神様から蓮根を二節頂いた。それでそれが最後の締めくくりの話になりましたよね、皆さん夕べのお参りになっとった方はその通りです。
例えば私共がね本気で養素拝山で行こうと。いよいよ自分の心が豊かに大きゅうならにゃ、豊かなおかげにも力にもならないんだと分かったら、なら本気でその養素拝山のおかげを頂こうと。本気で起きて来る一切の事柄、成り行きを尊び大切にしながら拝んで受けて行こうと腹を決める。腹を決めたらね例えば本気で親孝行させて貰おう、もう信心の言うなら合楽理念の根本は親孝行にあると言われる位だから。本当に親不孝とまでしなかったけど、本気で親孝行しようという気でなかった事に気付かせて貰うて。
本気で親孝行させて貰おうと心に決心が出けると、まぁだ親孝行はしてもおらんのに、したかのように神様がおかげを下さるもんだ。本気で今日から只今からよいよその和賀心を目指そうと。和らぎ賀ぶ心を目指そう、しかもそれをが豊かに大きくなって行く事の為に、いよいよ養素拝山だともうこれに極まった、これに決めたと決心がつくとね、言うならその蓮根の節を乗り越えたように、後は神様が出けておらんけれども、出けたかのようにして蓮根食うておかげを下さるという締めくくりでしたね昨日の。
私はそれを頂きながら、まぁいつもの事ながら有り難いなぁと思うた。まぁ30分か40分かお話させて頂いたが。なるほど成程と聞いてはおるけれども、やっぱり最後の締め括りのところで腹が決まる。腹が決まったというひとの何か思いがね、説教台の上にこう集まって来る感じがしましたよ。はぁほんな事そうだという風に、昨日のお説教を聞きながら思うた人があったものがあったと私は思います。この生き方で行こうと腹を決める。出けたかのようにして、なら神様が蓮根食うて下さる。
出けたかのようにしておかげを下さる。いうなら私の場合が一番そうです。出けてもおらんのだけれども、神様がこのようなおかげを下さる。これはもう本気で生神様を目指そうと腹を決めてるからです。それこそ恐れ多い事でございますけれども、教祖様がハッキリ仰った。この方だけが生神ではない、皆んなもこの通りのおかげが受けられると仰るのだから、もう金光教の信心の焦点はこれなんだと分からせて頂くところから、本気で生神様を目指す。
ところがさぁ自分の心を思うて見たり覗いて見ると、教えに照らして見ると。神様どころか似ても似つかない心ばっかりのある、である自分に気付くのだけれども。そこは詫びれば許してやりたいのが親心だと仰せられ、それでもやはり改まりに改まって、なら一歩でも生神への精進を怠ろうとは思わない。いやそれに精進をさせて頂こうと腹を決めておる。だから生神様になったかのように、神様がおかげを下さるのじゃなかろうか。腹はそこにとても私どん生神様てん何てんなりきらん。
いやそげん生神様にはならんでん良かと思うて、たかを括っとったではおかげもやはり、たかを括った様なおかげしか頂かれん。生神様を目指しておる者が、この位な事で腹を立てたり、この位な事でイライラしたり暗い心になったりしたんじゃと、いう心にいつも支えられて言うなら、真の信心を目指すのです。真の信心とは私は生神を目指す信心だと思う。その為の手立てが様々に説かれる訳なんですよね。こういう風に頂いて参りますとこの節の、なるほど上から下へ水を流すのは見やすいけれども。
下から上へ水を流すのは難しい。匹夫の凡人から開くのじゃから、物が難しゅうて暇がいると仰せられるけれども。その物が難しゅうて暇のいる事その事が有り難うなって来る。これが生神への手立てである。これがいよいよ豊かになる心が美しゅうなる、大きくなる為の手立てであると思うと、その事を合掌して。いわゆる成り行きを尊び、成り行きを大切にする心が段々本当なものになって来る。本当にそうだなと本気でそういうおかげを頂きたいと、その腹を決めるとね。
決めた所から言うならば神様が蓮根食うて下さるという事は、心の中に有り難いものが頂けて来る。苦しい苦しいと思うておった事が有り難くなって来る。なら有り難くなって来たら難しい事はないでしょう。お礼を言う心であったら残念無念ちゅう事もないでしょう。今までは残念だ無念だと思うておった事が、却ってその事に対してお礼の言えれる心が開けて来る。そういう辛抱。そういう辛抱を内容がねそういう辛抱をさせて頂いて行く内に、徳が受けられるとあります。
徳が受けられたらこれはもう、いよいよ神様とのお付き合いが出けるようなものです。皆さん神様とお付き合いが出けるくらいなね、一つ信心を目指さなきゃいけません。もう金光教の信心は私は思うんですけれどもね。もう確かにあのう人間がお徳を受けて、信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、御道の信心によって徳を受けて、その徳を受ける手立てが、こんなにも噛んで含めるように教祖は説いておられる。ところがそれを尚私共が難しいと思う。そこで生まれたのが合楽教会であり合楽理念である。
そしてならこれをまた噛んで含めるように言うて下さる。だから大抵頭の悪い人でも分かる。馬鹿の一つ覚えでいいて。信心とは利口になる為でもなからなければ、偉くなる為でもない。もう有り難くならせて頂く稽古だと。だから嘘にでも良いから有り難い勿体無いと言うて行きよりゃいい。本当に有り難くなって来る。そういう信心。内容として今申しましたようにねもう養素拝山。もう腹をそれで決める。そこから修行が有り難うなって来る。そしてそこには実証があるからね。自分の心の中にも感ずる。
はぁこれが信心が分かって行きよる印だなぁと。これが力を頂いて行きよる印だなと、言う様なものを感じる事が出ける。もう辛抱が辛抱でない事になって来た頃にはそれこそ辛抱の徳。いわゆる辛抱して行く内にはお徳が受けられる。そういうお徳をこの世では私共が頂いて、この世で幸せになる事だけのためではない。この世でのそういう幸せがそのままあの世でも持ち続けて行けれるというところに、宗教の一番いわゆる確信というか。信心の芯というのは大体はそこにある。
あの世にも持って行けれる徳をこの世で受けておかなければ、合楽に縁は受けておったけれども、おかげは受けたけれどもお徳が受けて。受けられてはいなかったというだけでは勿体無いでしょう。勿体無いです。それを私共が徳化して行く、いわゆる徳に化して行くと。徳を受けて行くという生き方。それは難儀が難儀と感じられない、神愛としか感じられないくらいにスッキリとそれが頂けれる。そういう手立てが合楽理念には説いてありますから実行さえすれば、なるほど神愛だなという事が分かるんです。
どうぞ。